LOGINそのあと、彼のこの手がどうなるのかとドキドキしていると──。彼のスマホから電話が鳴った。その瞬間、そのドキドキの空間から現実にまた引き戻される。「すまない」一弥さんもその電話に気づき、私の手をスッと放してしまった。あっ……。スルッと彼が握っていた手が離れた瞬間、私は物足りなさを感じてしまう。そのまま彼が手を引いて部屋まで歩いて行くなんてことはありえないけど。それでも今の彼がどんなふうにこのあと接してくれるのか、少し知りたかったような気もした。「もしもし。……え? 今から? いや、もうこのあと仕事はないが」すると少し一弥さんは私から離れ電話の相手と話し始める。「……フッ。なんだよ、会いたいって」え……会いたい……?誰……なの……?彼がふわっと柔らかい表情で笑いながら口にしたその言葉に、私の胸はすぐに反応してズキズキと切なくなる。彼に『会いたい』だなんて平気で言える人……。そしてそんなふうに彼が戸惑いもなく受け入れる人。「俺の部屋? まぁいいけど。あぁ。うん。わかった。じゃあ部屋で待ってるから、このあと来てくれ」え……一弥さんの部屋……に、来るんだ……。私以外にこのマンションの部屋を知ってる人がいるんだ……。そんな気兼ねなく話せて部屋に呼べるほどの仲。もしかして……綾乃……? それとも違う女の人……?そうよね……。彼にプライベートでどんな女性がいたとしても、おかしくないわよね……。私は所詮ビジネスパートナーだけで、プライベートの彼の生活には決して入り込むとは出来ない……。さっきまであんなに近づけた気がしたのに、電話をしながら前を歩いていく一弥さんの背中を見つめていると、さっきまでの心まで遠くなっていくようで胸が痛む。出来ることなら、あの広い背中に今すぐ手を伸ばしたい。『まだ一緒にいたい』と、彼
何かを伝えようと、彼は自分の中で何かを考えているように見えた。そしてそのまま憂いを帯びた目で、私を見つめる。私はそんな切ない雰囲気の彼から、目が逸らせなくなる。すると、私の腕をギュッと彼が掴み、ゆっくり口を開く──。「──これからは……、ただ、俺に守らせてほしい。お前も、そのお腹の子供も……」私を見つめながら、ゆっくりと私に静かに伝える。「え……。それは、どういう……意味……?」私たちを守る……? 一弥さんが……?彼のその目が、表情が、その言葉が、一体どういう意味を持つのか……。私に何を伝えようとしているのか……。今までの彼と私の時間を思い返すと、余計にわからなくなる。だけど、見たこともない彼のその切羽詰まったような苦しそうな表情を見ると、明らかに今までの彼とは違っていて。それでいて、今の彼といると、心のどこかで少しずつ期待してしまっている自分もいる。気づかないフリをしていた自分の彼への気持ちも、もう自分自身こんなにも自覚している中で、こんなことを言われたら、どうしたって私は期待したくなってしまう……。今だって、私の腕をギュッと握りながら私を見つめ続ける彼に、私のこの胸はこんなにも高鳴っている。彼が次に口にする言葉を、私はドキドキしながら待ち続ける。「杏華──」私を見つめながら、彼は掴んでいた手を、今度は膝に置いていた私の手の上に、自分の手のひらをそっと重ね、少しずつ強く握り締めていく。その手のひらの熱さや握る強さに、彼が今言葉にしようとしている想いが伝わってきそうで、私のドキドキはもう──。そう思った瞬間。「お疲れ様でした。マンションに到着いたしました」運転手の崎山さんの声がスピーカー越しに車内に響いた──。その瞬間、お互いハッと我に返り、重なり合った手を崩す。「──あぁ。車が、着いたようだ……」「そ、そうね──」私たちは少し気まずい雰
【一弥side】杏華のその『たった一つのお願い』は、あまりにも俺の心を激しく乱す言葉だった──。それは決して俺に一緒に子供の面倒を見てほしいだとか、責任を取ってほしいだとか、そんなことを一切言わない、杏華らしい控えめで俺を気遣うありのままの健気さ。だけど、俺にそんな責任も取らせてもくれない、そんなことをまったく望んでいないのだと、言葉にしなくても伝わってくる強さ。どこまでもそんなふうに思ってしまう杏華にしてしまったのは、間違いなくこの俺だ──。控えめのお願いなのに、それは杏華の強い決意のように感じてしまう。それでいて、父親としてそれ以上でもそれ以下でもない、ただ名前を書く役目……、ただそれだけを望んでいるのだと……。どこか線を引かれてしまっているような、元からもう父親としての俺を望んでいないと言われている気がして……。そんな杏華の気持ちが伝わってくるようで、胸が痛い──。本当なら、父親として杏華と一緒に誰よりも大きな愛情を俺たちの子供に与えてやりたいのに……。俺のくだらなくて情けない過去の自分の過ちのせいで、俺はその本音も言うことを許されず、杏華もきっと口が裂けても言葉にしない──。今更どれほど後悔したところで、こんな孤独にさせてしまった俺の大きな罪は消えやしないのに……。だけど──。俺の字を、そんなふうに思ってくれていることも、すごく嬉しくて……。ただ家のためにやっていただけのこと。どれだけ綺麗な字を書いたところで、感動する人間も褒めてくれる人間もいるわけじゃない。桐生の人間なら、出来て当たり前の世界。それを杏華は子供のために、名前を書いてほしいと俺に望んでくれた。大切な子供の名前を……。唯一そんな俺を認めてくれて、求めてくれる。俺は初めて今そんな自分になれていることを嬉しく思った──。杏華は、俺が俺でいることの意味を、こうして気づかせてくれる。俺が気づかないそんな小さな忘れかけている
「あの……一弥さん」「ん? なんだ」私が視線を落としながら名前を呼ぶと、彼は優しく答えた。私が名前を呼ぶだけで、彼はちゃんと答えてくれる。不機嫌そうに吐き捨てるように言われるのでもなく、私にちゃんと問いかけるように優しく聞き返してくれる。すぐそばで彼のそんな声を聞くだけで、私は胸がキューッとなる。「今日のフルーツの差し入れ、すごく嬉しかった。ありがとう」夏希と約束したように、ちゃんと素直に気持ちを伝える。「あぁ。喜んでもらえたならよかった」「撮影前にあれを差し入れしてもらえたおかげで、頑張るパワーがすごく出た」「──そうか。お前がお前の力で手にした初めての単独の仕事だ。少しでもそんなお前の力になれてたならよかった」「うん。すごく力になったよ。あと、あのこれも……嬉しかった……」私はそっとバッグに忍ばせていた彼が書いたメッセージカードを取り出して見せる。「は──? お前、そんなもの持って帰って来たのか」私がそれを見せると、一弥さんは焦った様子を見せる。「うん。あなたが初めて書いてくれたメッセージだもの──」私はそのカードを見つめながら呟く。「え……? それが嬉しかったのか……?」「うん……。これをくれたから更に頑張れた。あなたのこの字を見て、あなたが力を貸してくれたみたいな気持ちになれたの……」私にとっては、どんな小さなことでも嬉しいから。あなたが私に心を向けてくれているのだとわかる、すべてが……。「ずっと……憧れてたから……」あの頃、彼に憧れていた私が知ったら、心から喜んでいただろう。憧れていた彼が、私にこんなメッセージをくれる日が来るだなんて……。私はカードを見ながら、あの頃の自分を思い出す。「え……? 憧れてた、って……?」すると、彼が小さく呟いた私の言葉に、どうしてか聞き返す。
後部座席から、とてつもないオーラを身にまとい颯爽と一人の男性が姿を現す。「え……一弥さん!?」それは間違いなく一弥さんだった。え? 一弥さんがなんで!?結婚してたとき、うちに執事さんがいたから、それなりのお金持ちなんだとは思ってたけど。それでも、こんな運転手さん付きの、すごい車に乗ってるところなんて一度も見たことなんてなかった。「杏華。待たせた」キリッとした表情で車から降り立った瞬間、あまりのそのオーラとカッコよさに息を呑んだ。彼は車から降りると、そんな周りに一切目もくれず、私を見つけると優しい眼差しで見つめながら、そばまでやってきた。私はその光景に唖然とし、固まったまま、同じようにそんな一弥さんを見つめる。「撮影疲れただろ。ここから家まで結構時間がかかる。着くまでゆっくり車で休め」そう言いながら、スッと私の背中を優しく手で支え後部座席へと促す。「あり……がとう……」私はドラマのような光景が自分に起こっているのが信じられなくて、ただ呆然としながらそれ以上言葉も出ずに、そのまま彼に優しく促され、その座席へと座る。私が座ったのを確認すると、彼も反対側のドアに回り、隣の座席に座る。ふかふかのソファーに広すぎるその空間。乗ったこともないこの豪華な車に、私は少し緊張してしまう。だけど、その空間以上に、この密室で運転をしていない彼がこんな近い距離ですぐそばにいるということに、私は少し体が固まってしまい今まで感じたことない緊張感を覚える。私は無意識に自分の両腕をギュッと抱え、縮こまってしまう。「杏華」声をした方向を見ると、すぐ隣で私をじっと見つめている一弥さんに気づく。えっ──!?一弥さんが少しこちらに身体を乗りだし、更に私の方へと近づいて顔を覗く。何、何!? なんでこんな近いの!?なんでこの人こんな近くで私をじっと見つめているの!?私は更に身体をすくめ、ほんの少しのけ反る。「寒いのか──?」「えっ!?」あっ、私がこんな仕草をしているから、彼は心配したってこと──?「あっ、えっと」私は一弥さんを意識しまくっている自分を悟られたくなくて、ごもってしまう。すると彼が運転手さんの後ろのパーテーションを少し開け──。「崎山。後ろの温度を少し上げてくれ。杏華が寒がっている」「承知いたしました」運転手さんに彼は温度を上げ
「杏華。着替え終わって帰る準備が出来たら連絡してくれ。表に車を回しておく」「うん。わかった」撮影が終わったあとスタッフさんたちに挨拶をし、一弥さんに言われたとおりスタジオを出て正面入口まで夏希と向かう。「夏希。今日も素敵なメイクありがとう」「どういたしまして」「夏希がいつも一緒だなんてホント嬉しいな。夏希がいると、安心も出来るし何よりホント自信持てるんだよね」「それは、すっごい嬉しいんだけどさ。そういう素直な気持ち、他にもちゃんと伝えたい人がいるんじゃない?」そう言いながら、夏希は意味ありげな言葉と共に微笑む。「え!? な、なんのこと!?」「やだな~わかってるくせに~。ホント二人とも素直じゃないんだから~」「え……? 二人ともって……?」「あぁ~誰かさんがさ、全然素直じゃないな~って話。まぁ、杏華はとりあえず桐生さんに今日嬉しかったこと、ちゃんと伝えるんだよ?」「え──? あっ、うん。わかってる──」もちろん今日のこの気持ちは、一弥さんにちゃんと伝えたいとは思ってる。けど……。うまく話切り出せるかな。お礼伝えただけで話終わっちゃわないかな。今までそんなことをわざわざ改まって、伝えるということを待つというか意気込むというか、そんなことしたことなかったから、ちゃんと伝えられるか少し緊張してしまう。昔は、それこそ胸に秘めていた想いは山ほどあったけど、実際彼に直接伝えられることなんてなかったからな──。「フフッ。なんだかちょっと緊張しちゃう」「もう~杏華はホント可愛いな~! 今の杏華そのままで桐生さんに伝えたら絶対大丈夫!」「ちゃんと話聞いてくれたらいいな」「──大丈夫! 絶対今の桐生さんなら聞いてくれるから! 私が保障する!」夏希が自信満々にそんな言葉を伝えてくれる。夏希は一弥さんのこと全然知らないはずなのに、どうしてだか夏希の、このはっきり宣言する感じが、私よりも彼のことを知ってるような、そんな雰囲気に感じてしまう。だけどそれがなんだか心強くて。そして今の彼ならホントに、ちゃんと聞いてくれるような、そんな淡い期待を実際私も感じてしまっているから──。「ありがとう夏希。頑張ってみるね」別にそれは、たいしたことない話で、ただお礼を伝えるだけなのに。私にとっては、そんなことを伝えるだけでも一大事みたいなもの
「わあ、すごく綺麗なお花!」 綾乃は、私の腕の中に抱えられた花束を、目を輝かせて見つめた。 私は反射的に花束を抱き寄せる。 「この花は……」 言い終える前に、すらりとした長い手が、私の腕の中から花束を奪い取った。 呆然と顔を上げると、そこには桐生一弥の、感情の揺らぎひとつない瞳があった。 彼は、私が心を込めて選んだ――純潔な愛を象徴する白いバラの花束を手にすると、そのまま自然な動作で振り返り、綾乃の前に差し出した。 「誕生日おめでとう、綾乃」 低い声だったが、突然静まり返った個室の中には、はっきりと響き渡った。 綾乃は驚きと喜びの入り混じった表情で花束を受け取り、顔を花びらに
【プロローグ】 初恋は実らないものだ、と人はよく口にする。 私はそれを信じず、初恋の人と結婚した。 結婚三周年記念日。 私は妊娠をした身で、ミシュランに引けを取らないほどのご馳走を並べ、彼の帰りを待っていた。 すると彼から一本のメッセージが届き、ある高級レストランの住所だけが記されていた。貸し切りだと。 ついに彼も気が回るようになったか、サプライズを用意してくれたのかと思った。 ドアを開けた先にあったのは、私の妹・綾乃の誕生日会だった。 その瞬間、私はすべてを悟った。 自分だけが幸せだと思い込んでいたこの結婚は、最初から最後まで私ひとりだけの独り舞台だった。 私はあの子の影
目を覚ました瞬間、強い戸惑いに包まれ、次いで記憶が断片的に一気に押し寄せてくる。 気付けば無意識のうちに私は下腹部をかばっており、鈍い痛みが走った。 そのとき、そばにいた一弥さんの姉の真琴さんが私が目を覚ましたことに気付き、慌てて駆け寄る。 真琴さんは私の手をぎゅっと握り締め、声を震わせながら言った。 「よかった……やっと目を覚ましたのね。お医者さんが言ってたの。急激な精神的ショックと、長期間の心身の抑圧が原因で、切迫流産の状態だって。今は安静が必要よ。……ねぇ、どうして妊娠していること私に言ってくれなかったの?」 「どうして、私は病院にいるの? どうして真琴さんがここにいるの?」
「お姉ちゃん、どうしてあんなことしてバレないと思ってるんだろ」 え……、あんなこと……? バレる……? なんの話……? 「まさか、あいつが俺の知らないところで、男漁りしてるなんて心底見損なったよ」 男漁り……? さっきも、それ言ってたけど……どういうこと……? 「お姉ちゃん、もうそれ病気なの……。一人の男性では満足出来なくて、常に自分の欲望を満たしてくれる男性を探し求めてるの」 ちょっと待って……! あまりにも身に覚えのない酷い綾乃の嘘に私は驚いて言葉を失くす。 「俺もまんまと騙されたよ。まさかずっと清純なフリをしてたなんてな」 酷い……! 一弥さんもどうしてその言葉を信じるの…







